2021-08-16 待たない、浮いたまま、待つ
近頃の歌はイントロがなくて急に歌声からはじまるものが多いそうだ。
動画も音楽も、始めの20秒くらいでその先を聞き続けるかどうか決められてしまう。
むかしは今みたいに便利に早回しをしたり倍速で聞いたりするシステムがなかったからかもしれないけれど、ときにはじりじりしながらも自分の好きな場所に差し掛かることを待った。
飛ばしてしまうことには小さな罪悪感があった気がする。その作品をつくったひとへの敬意というほど大げさなものではないけれど、自分がそのものをぞんざいに扱って損ねてしまうような感覚。
今考えると、そういうことで損なわれるのは、直接的には自分の感覚のほうだったのだ。
他人に対する評価がall or nothingのようになっているところがあるよね、という話になる。人を敵と味方に簡単に分けてしまうような。
ののかさんが、自分にとってトラウマのようになっている部分に相手が触れるとそれで反射的に拒否してしまうところがあると話し、逆卷さんが、トラウマ的なところで反応したとしても相手の評価として全面化しなければいいんじゃないか、という風におっしゃっていて、それを聞きながら自分の態度を省みる。 アパートメントで起こっていたことについて書いたが、あれは本当に最善のやり方だっただろうかと今でも考え続けている。
この場で役に立つ、客観的で冷静な視線で見たものだけを書こうと気を配ったが、それこそ自分のトラウマ的な部分と切り離して話すことを難しく感じて見直しを重ねた。自分が水面下でどういう思いをしたかをが文章に染み出してしまうことを止めるのが難しく、最終的にはそれが自分のためのものではなく起こった出来事のためのものになったと思えたから発表したのだけれど、でもそれはほんとうにそうだっただろうか。
そののちこの件に関する色んな人の言葉を読んだ。このことをトリガーにして過去の怒りが蒸し返されたり、別の類似の出来事に繋げてそれを増幅させ、やり場のない炎で自分を焼いているようなものも見かけた。または自分の怒りや悲しみは特別であるという意識に目がくらみ、同じ被害を受けた他のかたの気持ちが見えなくなっているような例も。(もちろんこういう感情をも見つめながら、まっすぐこの問題に取り組まれている方も多くいる)
そういうものに疲れながら、でも果たしてわたしはそこからどれだけ遠いだろうかと考える。
もしこのことについて再び言及することがあるとしたら、言葉が濁るような状態を抜け出て、次の考え方や行動の柱となるようなことを示せるときにしたい。
好きなサイトを意識的に読み返す。
久しぶりにこういう方法なら自分がまた誰かと関われるかもしれないという気持ちが膨らんだので、でもいちど何かに立ち返るようなことをしておきたくて。
読んでいるうちに、私が考えたことはやはり時期尚早だったかもしれないという思いがわく。
ぱっと思いついたアイデアに飛びついてすぐにそれを形にしようとしてはいけない。
しずかに育てて、いつかそれが溢れてこぼれおちそうになるまで、待とう。